東北最古のやきものの発祥の地・会津本郷、伊佐須美神社をはじめとする由緒ある社寺が多く残る会津高田、そしてゆるやかな丘陵地に望む果樹の風景が美しい新鶴と、エリアごとに異なる、さまざまな魅力が共存する会津美里町。それぞれの地域に住む人たちが、それぞれのありのままの暮らしぶりを「まちの宝」としてあらためて誇り、そして、町外から訪れるより多くの方々から「また帰ってきたい」と親しみを感じていただける地域づくりのヒントを探すため、2019年11月31日から2日間、長崎県東彼杵郡波佐見町と佐賀県嬉野市を視察訪問しました。

今回は、前編で訪れた長崎県波佐見町同様やきものの産地であり、地域の産業であるお茶、温泉、やきものを結んで、あらたなパッケージで売り出す取り組みをはじめた佐賀県嬉野市での学びをまとめました。

ここ嬉野市で作陶される吉田焼もまた有田焼からの決別を余儀なくされたやきもののひとつ。有田や波佐見と同じ「肥前窯業圏」にありながら、吉田という小さな磁器産地のアイデンティティに悩みながら、新たな可能性を模索し、発想の種を育んできた吉田焼の窯元さんたちは、今まで自分たちがあまり得意としていなかったPRや企画に力を入れ、産地への集客につなげることに成功します。成功の裏側にあったのは一体なんなのでしょう。地域の方の話を伺いながら、地域が活きるヒントを学びます。

「肥前やきもの圏」を支える嬉野市 

長崎県波佐見町から、隣接する佐賀県嬉野市の中心部までは車でおよそ18分。佐賀県南西部に位置する嬉野市は、旧嬉野町、旧塩田町が合併して誕生しました。かつては塩田川漁港が栄え、長崎街道の宿場町塩田宿として人が往来した交易の拠点。地域の名産品である嬉野茶は500年、吉田焼は400年、そして西九州最大級の温泉宿街である嬉野温泉は1300年の歴史を有する土地でもあります。大規模な登り窯での大量生産に成功した波佐見に対し、吉田では色絵を施した器が作られてきました。昭和の暮らしのなかによく登場した、水玉模様の茶器は吉田焼の代名詞。また、佐賀県と長崎県を含む、やきもの産業の活発な肥前地区で作られるやきものの95%は嬉野市内の陶土を原料にして作られているとのことです。つまり、陰ながらこの地域一帯のやきものを支えてきた場所なのです。

新プロジェクト「えくぼとほくろ」案内窓口でもある肥前吉田焼窯元会館。陶片でつくられたオブジェが目印。

失うものは何もない。だから、開き直れた

吉田焼の創業年歴は定かではないとされていますが、天正5年(1577年)、吉田村を流れる羽口川の上流の川底で白く陶鉱石(器の原料)が発見されたことがきっかけであったとされています。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に同行した佐賀藩主鍋島直茂が連れ帰った朝鮮陶工そのうちのひとりを吉田へ送り、陶磁器を作らせてから400年。波佐見焼同様(前篇参照)の理由でその名が表舞台に出ることはあまりなく、伊万里焼や有田焼として出荷され続けるまま、2000年ごろ、ようやく吉田焼としてのスタートを切ることになりました。そうしたことから、波佐見焼も吉田焼も同じ理由で苦境に立たされますが、産地の特性などからそれぞれのその後の取り組みは大きく異なるものでした。

「生産量、販売量では近隣の有田や波佐見には遠く及ばないというマイナス思考が働いて、最初は吉田焼として名乗ることをすごくネガティブに捉えていました。でも、途中で開き直ったんです。どうせ誰も知らないし、このまま何十年かしたら吉田焼がなくなるかもしれない。だったら、まだ産地が死んでいない今のうちにやれることを全部やってしまおうと」

そう語るのは、「224porcelain」代表で、陶芸家の辻諭さん。吉田焼の中心地である吉田皿屋地区に工房を構え、吉田焼の復興をかけていくつもの新プロジェクトを始動させた仕掛け人のひとりです。

代々の歴史や伝統を重んじる産地の中で、これからの新しい吉田焼をつくるために反対されることを覚悟で、近い世代を中心に吉田焼の新プロジェクトを推進した辻さん。

「肥前一帯のやきものは全て同じ土、同じ焼き方。作り手の僕でも、器にある屋号を見ないとどこが産地かわかりません。そこまで同じだからこそ、見せ方や打ち出し方を変えて、他の産地と違うアプローチでファンづくりをしていこうと取り組みを始めました」

小さい産地だからこそ、出来ることがある。そう思った辻さんは、自ら構想した企画を同じ吉田地区の窯元さんたちに提案します。そのひとつが、「吉田皿屋トレジャーハンティング」。創業150年の老舗陶器問屋「ヤマダイ」の古い木造蔵に何百、何千個と眠るのは、今はもう作陶されない年代物の器や稀少性の高い未完成の器などの山。訪れた人がその中からお気に入りの器を探し出して購入するという体験型購買です。カゴいっぱいに詰め放題で5,000円という体験料は、器の価値を知る人からすると破格に感じられるでしょう。

トレジャーハンティング会場である木造倉庫は、入口付近からすでに何か「掘り出し物」に出会えそうな雰囲気が漂う。

所狭しと置かれた大量の器のなかには、有田焼や伊万里焼、三川内焼や大川内焼など、吉田焼以外のやきものも。近隣地域の器を多く扱う器商社ならではの種類の豊富さだ。

「ヤマダイさんのところは跡継ぎもいなくて(在庫を)どうにかしたいという背景があり思いついた企画です。だから、在庫がなくなるまで続けたい。なくなったら、それで終わり、大成功。しかし、この企画を通して、産地に人を呼んで、器を買ってもらうやり方が吉田焼きには向いていると確信を強めました」

ただ埋もれた器をハンティングするのではなく、暗い倉庫の中で探検気分を味わってもらうために懐中電灯と軍手を用意。会場となる木造蔵までは、昔から変わることのない民家の間をくねくねと曲がりくねる裏路地を抜けて向かう。「子供の頃から遊び、見慣れすぎてなんとも思わなかった」と辻さんが言う町並み。そこにわざわざ人を案内することになったのは、「僕らの苦手なところを補ってくれる人たちを呼ばなきゃどうにもならない」と考えた辻さんたちプロジェクトメンバーが招いた有識者によるアドバイスでした。

「それまでは路地や工場を見せることに何も感じなかったんですが、町の外から来た人たちが『これはいいよ!』と。本当はすごい宝物なのに自分たちが麻痺していていたのだと気付かされました」

工房が立ち並ぶ一角に無造作に並べられた大量の吉田焼。「見慣れた風景ですよ」と地元の人が言う風景だが、旅人たちにとっては忘れられないワンシーンになる。

あまりにも身近で気づけなかった地元の宝

そうした風情のある昔ながらの町並みを生かした演出に加え、外部アドバイザーの協力によるプレスリリースの配信や電話でのフォロー、メディアに向けたプレスツアーなどが功を奏し、メディアへの露出が圧倒的に増加。県内のほぼ全てのメディアが取材に訪れ、遠く離れた東京からも取材依頼が寄せられたのだそう。観光客も増え、一時期は国外からの訪問客の予定でいっぱいになることもあったと言います。

「ほかにも、事務やプロダクトデザインのディレクションは外部の方にお願いしました。それに対して、外の人にお金を持っていかれちゃうとか、いろいろ言う人も確かにいました。しかし、依頼において、『このプロジェクトではこういうことがやりたい』という主導権は僕らが握って進行しました。外の人だけに丸投げしなかったんです」

トレジャーハンティングの盛況ぶりを受けて、辻さんが次に提案したのは、やきものの焼成過程で発生する黒い点や凹みのために、これまで廃棄されるか、もしくは陶器市で安く買い叩かれてきた器をそれぞれの窯元が売るプロジェクト「えくぼとほくろ」。どんなに焼きが上手い窯元でも、1度に10%はいわゆるB品とされる器が発生するもの。しかし、日常使いするにはなんら問題がなく、吉田皿山地域だけで年間3万個以上も出てしまうこの器をどうにかできないかと、辻さんが何年も温めてきた企画だったと言います。

えくぼとほくろのマークには、捨てられる運命だった器たちを「大切に持っている姿」、そして「職人からお客様に受け渡す姿」が描かれている。

「自分のこども(作品)にえくぼやほくろがあっても可愛いじゃないか、個性じゃないかという陶芸家の思い入れと、普段使いするのには全く問題ないということを掛け合わせ、工場見学もセットにした産業観光の一環として展開することにしました。訪れた方に実際の作陶現場を見せると、手仕事にかかる手間や職人の想いに感動していただけるので、器の購買にも繋がります。そして、今までの陶器市で見かけた『B品だから3つでいくらにまけてくれ』と言って値切る人もいなくなりました」

企画に賛同した6つの窯元とともに進めた「えくぼとほくろ」、そして「トレジャーハンティング」。それを受けて、吉田焼全体の売り上げは年間で1,200万円も上がったのだそう。その功績におごることなく、辻さんの頭の中には、次の企画がいくつも出番を待っています。

「今は、新しく出来る新幹線の駅やその周辺に仕掛けるアイディアを練っている最中。僕たちは、予算的にも自分たちの無理のない範囲でやってきたからこそ、ここまで続けて来れました。小さな地域なので、作り手が潤うのに必要とする売上もむやみに大きく掲げる必要はない。嬉野を訪れる方々に吉田焼を知っていただき、吉田焼のファンになっていただくことを目指したい。それは、プロジェクトに関わる他の窯元さんも同じはず。その取っ掛かりを作るためにいくつもの企画を考えてきました」

地元民同士だから無理がきく

そんなふうに「これからの吉田焼」をつくるために奮闘する辻さんに声をかけ、嬉野の観光資源である嬉野温泉や嬉野茶と吉田焼を結び、嬉野の伝統文化を上質な空間ともてなしによって提案するプロジェクト『嬉野茶時』を立ち上げたのが、辻さんとほぼ同年代の小原嘉元さん。由緒ある嬉野温泉で三代続く和多屋別荘の代表取締役でもあります。父親から継いだホテルの経営再建に死に物狂いで奔走した後、それまでなにも貢献できなかった嬉野という地元になにか出来ることがないかと考えて生み出したのがこのプロジェクト。立ち上げた当時は、これほど息の長いプロジェクトになるとは考えていなかったのだと言います。

「プロジェクトの原点は、『うれしの晩夏』として実施した2016年のイベント。茶農家が運営する『嬉野茶寮』や、食事会としての『嬉野晩餐会』などが好評いただいたこと。これはどうも100年、200年先も戦える企画で、ここ嬉野市の観光の軸になるのではという仮説から、現在の『嬉野ティーツーリズム』へと発展していきます」

嬉野茶時でふるまわれる、お茶と菓子。茶師自ら育てあげた茶葉で訪問客をもてなすため、茶寮を担当する茶師によってふるまわれるお茶の種類は回ごとに異なります。

「一杯のお茶を飲む。そのために嬉野に行きたい」と掲げる嬉野ティーツーリズムでは、嬉野市内の茶畑にさまざまな趣向を凝らした茶室を設置し、その中で新茶を振る舞う『茶室』、嬉野茶を片手に市内をロードバイクで巡ることの出来る『茶輪』、お茶の歴史と文化に触れる『うれしの茶交流館 チャオシル』など、大小さまざまな企画が用意されています。

「茶室は1時間1万円の価格設定をしています。行政からはすこしでも安く茶を飲ませたいという意見もあがりますが、それは茶農家や陶芸家、旅館などが安いものを売っても働き手がいたから成り立っていた時代の考え。無理やり高くするつもりはありませんが、クオリティコントロールを意識したプライシングで成立するビジネスだと考えると、妥当な価格帯だと考えています」

「茶畑のオーナーが『自分の(作った)お茶です、どうぞ』と言って客人に振る舞うお茶は、旅館でどんなに丁寧に淹れたお茶でも太刀打ちできない」と続ける小原さん。茶農家や陶芸家とともに、未来の観光資源に対する正当な対価を提示しているのです。

「それこそ当初は、身体を壊すほど辻さんに大量の器を作陶いただいたり、1時間で7回転させて1日140人が来店する茶事のイベントをしてきたりしました。あり得ないほどのエネルギーを注いでやってきたその延長線上に、今があると思っています。それが達成できたのは、地元の人間だけで始めたプロジェクトだからですよ。かつて、ホテルのコンサルタント時代、どれだけ現場スタッフと一緒に泥臭いことをしても内部のモチベーションや売り上げが上がりきらないのは、僕が外部の人間だったからだと思います。外の人は外の人。だから、内側にテロリストがいれば無理がきくんです。だから、嬉野茶時でも地元の人間だけでやってきたからこそ、踏ん張りが利いたんだと思いますよ」

嬉野茶時の活動を通して、「自分たちが育て、振る舞うお茶の価値がやっとわかってきた」と語る茶師。プロジェクトは、自分の自信につながったと語る。

その場に同席していた辻さんは、小原さんの意見に同意しつつ、「僕が言うのもなんですが、実際、小原社長も含め、茶師である7名の茶農家もみんな面白い人材が揃いましたよね」とコメント。

それに対し、小原さんは、「それまでいろんな努力もあったけれども、2016年の夏に集まれた、ということが大きかったですね。本当にワンチャンスでしたし、世の中の動きや無理の利き方、世間の需要を意識する最低ラインなどがちょうどよくおさまったんだと思いますよ」と続けます。

無意識にある、「この土地の人間じゃない」という感覚が、思いがけない障壁だったと振り返る小原社長だからこそ、地元の人間だけでプロジェクトを進めることにとにかくこだわったのです。じぶんごとに出来るかどうか。じぶんごとだと思える取り組みなのかどうか。だれが始めるか、だれと始めるかで変わる、人の意識に目を向けたチームマネジメントが嬉野茶時の成功だと言えるでしょう。

視察の学び

2日間を終え、視察先から得た学びを報告。それぞれが気づいた自分たちの課題と、その解決策を共有し合い、実際の行動に移していくための気持ちを新たにした。

視察を終え、再び参加者にこの2日間を振り返ると、「会津本郷にも裏路地や町並みの情緒があるので、そういうのを活かしてなにかできないか? 自分たちでも出来る範囲でなにかできればと思いました」という意見や、「立場にとらわれず、自分が面白いと思う事業や企画を立案していきたい」という意見が。地域が変わるのは、まずだれかの一声から。そして、同じ土地に暮らすというアイデンティティが、強いつながりをつくる。その意識がプロジェクトを進めるきっかけになる。これからの会津本郷を作る小さなアイディアの種を見つけられた2日間。ここから、行動が起こるのを楽しみにしています。

 

写真・文:会津美里の日々 編集室